忘れ物
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「たまには顔を見せてよ」と父が入所していた施設の方から電話を頂いたりメールが届いたりしていた。「年内には行きますね」と言いつつ結局今年になり、やっと先日顔を出した。
父が好んで通った施設内の喫茶『浪漫』 顔馴染みの入居者の方が「今日見えるって聞いていたので・・・」と待っていてくれた。ひとしきり父の話で盛り上がっていた時事務所の方が「早くお届けしなきゃいけなかったんですが、お見えになると伺っていたので、遅くなり申し訳ございません」と一枚の洋服を差し出した。「あ〜これよく着ていた物です。忘れてたんですね、すみません」と受け取った。
喫茶の方が「懐かしいね〜○○(父の苗字)さん、この服着て焼きそばよく食べに来ていたし、初めの頃は一人でやって来て”後で娘がお金を持って来ますが、お腹が空いて堪らないのでうどん食べさせて下さい”な〜んて言ってたね」と目を潤ませて話してくれた。
3年半、父は確かにこの施設に生きていたんだと改めて思い知った。
コメント
コメント一覧 (9)
お父様の思い出の品、返して頂けてよかったですね。
皆様良い方ばかりでお父様も楽しくお暮らしだったのでしょう。
本当によかったわ。
私自身も懐かしい洋服でしたよ。
入所当時は帰りたがっていましたが、家に連れて行くと「もう帰る」と施設を恋しがりましたからね。
可笑しいね。
我が晩年はまだ、想像がつきませんが、“今の居る場所”で気持ちが落ち着き、家に帰りたいという不可能な思いを家族にぶつけなくてすめばと思うのですが。
私のことばでいえば、可愛いお年よりとそうでないお年より、2分されますが、父上は“可愛いおじいさん”だったのですね。(^_^)/~
認知症の症状が進んでからは「家に帰りたい」「本屋へ行きたい」などの要求は無くなりました。
楽になった分寂しい想いも。
そうですね、晩年は「可愛い父」「愛しい父」でした。
もう40数年もたち、父の歳を超えました。
近頃は父親の存在が疎ましくなっていることが多いようで情けないです。
父を思ってくれる娘さんを持ったお父さんは、幸せ者ですね。
果たして我が家の子供達は・・・
そうしている内に、ボケが始まらないようにだけは気おつけ無くては。
今日お葉書届きました、有難う御座います。
早くにお父様を亡くされたんですね。
お父様の歳を超えられ、笛吉さんご自身ますますお元気でご活躍。
これからもお体大切になさって下さいね。
決して良い娘では有りませんでしたよ〜
素敵な絵と お話に じ〜んときました。
私の父は 62歳で逝きましたので
新しいままの(父の日のプレゼント)ポロシャツなどが
たくさんあって 母はお隣のおじいちゃんに差し上げて
着て貰っています。喜んでくださるのでそれもまた幸せかな
と思います。でも着古したものはやはり手元に残していますよ。
想い出がありますもんね。父親とはもっと話がしたかったなと
今になって思います。
畑でふきのとうと土筆の赤ちゃんを見つけました。
亡くなってしまった親にして上げられる事は何もありませんが、時折
思い出してあげることが供養の一つかと思っています。
施設を同じくされた方々とお父様の話題で盛り上がる事こそ、なによりのご供養でしたね。
母との最後のお別れのとき、何故か人目もはばからずに嗚咽してしまいました。後に「ミポリンちゃんはお母さんっ子だったんだね、お父さんの時は
そうでなかったのに」と言われたくらいでしたが、それきりあまり涙する事がないのです。何かにつけて思い出して涙ぐむのは父のことでした。
父と母の違いなのか、不思議な体験でした。
久しぶりに今日、私も父を思い出しました。
>usagiさんはお父様と早くにお別れしてしまったんですね。
現職の頃やその後も父と話すのは何故か苦手でしたが、だんだんと弱り認知症が出始めてからは関わる事が多くなりましたよ。
洋服などは我が家には無いですが点滴を触らないようにはめていたミトンは置いてあります。
最期を思い出し一寸辛いですが・・・
>ミポリンさん、ウォーキングへ昨日今日と行ったので土筆を探して見ましたがまだのようでした。
もう少し待ちましょう。
日が浅いので思い出さない日は有りませんね〜
父親っ子だと言う自覚はありませんが入所してからは週に二度は施設へ行っていたので十分に思い出は持ちました。
家に居た頃の父より施設での父を思い出しますね〜